いつもご覧いただき、ありがとうございます。
酷暑の夏休みでしたが、充実されましたか?
私も長く夏風邪を患い、寝込んでおりました(^^;
さてスローペースですが、本ブログも夏休みを明け、少しずつ更新していきます。
今日のテーマは【足りなさ】
100点満点じゃない自分を「どう見るか」
ということをお伝えします。
結論から言うと、
人は、満たされると、それ以上の成長が困難
となり、
足りない=満たされない
今の環境だからこそ、みなさんには成長の可能性がある。
だから”できない自分”を卑下せず、
手探りで自分の生きる道を見つけて行こう!
という内容です。
最後まで読んでいただけるとうれしいです。
第一次反抗期
「反抗期」という言葉は、高校生なら知っているはずですが、
小学高学年~中学にかけての反抗期は、
「第二次反抗期」
と呼ばれるんですね。
親や先生に「別に」とか「うるさい」「ウザい」と反抗し、言うことを聞かなくなる現象です。
しかしその前に来る「第一次反抗期」を知る高校生は少ないんじゃないでしょうか。
第一次反抗期とは、
別名「イヤイヤ期」とも呼ばれ、
2~3歳ごろの子が、親の手を借りず何でも自分でやりたがる現象をいいます。
これまで親の手を借りなければできなかったことを、自分でやろうとする。
つまり親と自分は違う、という自我の芽生えです。
これは、それまで”できなかった”からこそ、自分でできるようになりたい、という自然な現象なのです。
できない(わからない)ことを「できる(わかる)」ようになるのが成長
私自身が今も鮮明に覚えていることのひとつに、
初めて自転車に乗れた日
があります。
当時5歳?くらいだった私は、
補助輪の付いた自転車には乗れましたが、
なぜタイヤ2つだけにして倒れないのか?
と疑問だったんですね。
父が後ろを持って一緒に伴走してくれてる、と思ってたら自分一人で乗れてて、、、
その後は夢中になって何度も転倒しながら練習しましたが、
・自分が怖がるから転倒する(ある程度のスピードがある方が転倒しない)
・手を使って曲がらない(重心移動で曲がる)
・補助輪あるほうが逆に危ない
…なんてこともわかってきました。
このように、
できないことができるようになったり、
わからないことを理解できるようになった時、
人は「成長」したといえ、生きる喜びを感じるもの。
だから今できなくても、わからなくても、
それは今後乗り越える「壁」であり、
私たちはこれを乗り越える喜びを感じるため、毎日がんばっている、
ともいえるでしょう。
できない自分をどう見る
だからこそ、
できない自分=ダメだ
じゃなく、
できない自分でも、いずれできる・何かできる
くらいに考えておく方が、圧倒的に前向きに生きられます。
例えばひらがなや九九を習った時、
あれほど苦労して覚えたものが、
覚えてしまえばその苦労を再現することはできません。
漢字なんて小中学校で2,136字もの多数(常用漢字↓)を学習しますが、
すべては無理でも、読むだけなら半分以上は読めるはずです。
亜哀挨愛曖悪握圧扱宛嵐安案暗以衣位囲医依委威為畏胃尉異移萎偉椅彙意違維慰遺緯域育一壱逸茨芋引印因咽姻員院淫陰飲隠韻右宇羽雨唄鬱畝浦運雲永泳英映栄営詠影鋭衛易疫益液駅悦越謁閲円延沿炎怨宴媛援園煙猿遠鉛塩演縁艶汚王凹央応往押旺欧殴桜翁奥横岡屋億憶臆虞乙俺卸音恩温穏下化火加可仮何花佳価果河苛科架夏家荷華菓貨渦過嫁暇禍靴寡歌箇稼課蚊牙瓦我画芽賀雅餓介回灰会快戒改怪拐悔海界皆械絵開階塊楷解潰壊懐諧貝外劾害崖涯街慨蓋該概骸垣柿各角拡革格核殻郭覚較隔閣確獲嚇穫学岳楽額顎掛潟括活喝渇割葛滑褐轄且株釜鎌刈干刊甘汗缶完肝官冠巻看陥乾勘患貫寒喚堪換敢棺款間閑勧寛幹感漢慣管関歓監緩憾還館環簡観韓艦鑑丸含岸岩玩眼頑顔願企伎危机気岐希忌汽奇祈季紀軌既記起飢鬼帰基寄規亀喜幾揮期棋貴棄毀旗器畿輝機騎技宜偽欺義疑儀戯擬犠議菊吉喫詰却客脚逆虐九久及弓丘旧休吸朽臼求究泣急級糾宮救球給嗅窮牛去巨居拒拠挙虚許距魚御漁凶共叫狂京享供協況峡挟狭恐恭胸脅強教郷境橋矯鏡競響驚仰暁業凝曲局極玉巾斤均近金菌勤琴筋僅禁緊錦謹襟吟銀区句苦駆具惧愚空偶遇隅串屈掘窟熊繰君訓勲薫軍郡群兄刑形系径茎係型契計恵啓掲渓経蛍敬景軽傾携継詣慶憬稽憩警鶏芸迎鯨隙劇撃激桁欠穴血決結傑潔月犬件見券肩建研県倹兼剣拳軒健険圏堅検嫌献絹遣権憲賢謙鍵繭顕験懸元幻玄言弦限原現舷減源厳己戸古呼固股虎孤弧故枯個庫湖雇誇鼓錮顧五互午呉後娯悟碁語誤護口工公勾孔功巧広甲交光向后好江考行坑孝抗攻更効幸拘肯侯厚恒洪皇紅荒郊香候校耕航貢降高康控梗黄喉慌港硬絞項溝鉱構綱酵稿興衡鋼講購乞号合拷剛傲豪克告谷刻国黒穀酷獄骨駒込頃今困昆恨根婚混痕紺魂墾懇左佐沙査砂唆差詐鎖座挫才再災妻采砕宰栽彩採済祭斎細菜最裁債催塞歳載際埼在材剤財罪崎作削昨柵索策酢搾錯咲冊札刷刹拶殺察撮擦雑皿三山参桟蚕惨産傘散算酸賛残斬暫士子支止氏仕史司四市矢旨死糸至伺志私使刺始姉枝祉肢姿思指施師恣紙脂視紫詞歯嗣試詩資飼誌雌摯賜諮示字寺次耳自似児事侍治持時滋慈辞磁餌璽鹿式識軸七𠮟失室疾執湿嫉漆質実芝写社車舎者射捨赦斜煮遮謝邪蛇尺借酌釈爵若弱寂手主守朱取狩首殊珠酒腫種趣寿受呪授需儒樹収囚州舟秀周宗拾秋臭修袖終羞習週就衆集愁酬醜蹴襲十汁充住柔重従渋銃獣縦叔祝宿淑粛縮塾熟出述術俊春瞬旬巡盾准殉純循順準潤遵処初所書庶暑署緒諸女如助序叙徐除小升少召匠床抄肖尚招承昇松沼昭宵将消症祥称笑唱商渉章紹訟勝掌晶焼焦硝粧詔証象傷奨照詳彰障憧衝賞償礁鐘上丈冗条状乗城浄剰常情場畳蒸縄壌嬢錠譲醸色拭食植殖飾触嘱織職辱尻心申伸臣芯身辛侵信津神唇娠振浸真針深紳進森診寝慎新審震薪親人刃仁尽迅甚陣尋腎須図水吹垂炊帥粋衰推酔遂睡穂随髄枢崇数据杉裾寸瀬是井世正生成西声制姓征性青斉政星牲省凄逝清盛婿晴勢聖誠精製誓静請整醒税夕斥石赤昔析席脊隻惜戚責跡積績籍切折拙窃接設雪摂節説舌絶千川仙占先宣専泉浅洗染扇栓旋船戦煎羨腺詮践箋銭潜線遷選薦繊鮮全前善然禅漸膳繕狙阻祖租素措粗組疎訴塑遡礎双壮早争走奏相荘草送倉捜挿桑巣掃曹曽爽窓創喪痩葬装僧想層総遭槽踪操燥霜騒藻造像増憎蔵贈臓即束足促則息捉速側測俗族属賊続卒率存村孫尊損遜他多汰打妥唾堕惰駄太対体耐待怠胎退帯泰堆袋逮替貸隊滞態戴大代台第題滝宅択沢卓拓託濯諾濁但達脱奪棚誰丹旦担単炭胆探淡短嘆端綻誕鍛団男段断弾暖談壇地池知値恥致遅痴稚置緻竹畜逐蓄築秩窒茶着嫡中仲虫沖宙忠抽注昼柱衷酎鋳駐著貯丁弔庁兆町長挑帳張彫眺釣頂鳥朝貼超腸跳徴嘲潮澄調聴懲直勅捗沈珍朕陳賃鎮追椎墜通痛塚漬坪爪鶴低呈廷弟定底抵邸亭貞帝訂庭逓停偵堤提程艇締諦泥的笛摘滴適敵溺迭哲鉄徹撤天典店点展添転塡田伝殿電斗吐妬徒途都渡塗賭土奴努度怒刀冬灯当投豆東到逃倒凍唐島桃討透党悼盗陶塔搭棟湯痘登答等筒統稲踏糖頭謄藤闘騰同洞胴動堂童道働銅導瞳峠匿特得督徳篤毒独読栃凸突届屯豚頓貪鈍曇丼那奈内梨謎鍋南軟難二尼弐匂肉虹日入乳尿任妊忍認寧熱年念捻粘燃悩納能脳農濃把波派破覇馬婆罵拝杯背肺俳配排敗廃輩売倍梅培陪媒買賠白伯拍泊迫剝舶博薄麦漠縛爆箱箸畑肌八鉢発髪伐抜罰閥反半氾犯帆汎伴判坂阪板版班畔般販斑飯搬煩頒範繁藩晩番蛮盤比皮妃否批彼披肥非卑飛疲秘被悲扉費碑罷避尾眉美備微鼻膝肘匹必泌筆姫百氷表俵票評漂標苗秒病描猫品浜貧賓頻敏瓶不夫父付布扶府怖阜附訃負赴浮婦符富普腐敷膚賦譜侮武部舞封風伏服副幅復福腹複覆払沸仏物粉紛雰噴墳憤奮分文聞丙平兵併並柄陛閉塀幣弊蔽餅米壁璧癖別蔑片辺返変偏遍編弁便勉歩保哺捕補舗母募墓慕暮簿方包芳邦奉宝抱放法泡胞俸倣峰砲崩訪報蜂豊飽褒縫亡乏忙坊妨忘防房肪某冒剖紡望傍帽棒貿貌暴膨謀頰北木朴牧睦僕墨撲没勃堀本奔翻凡盆麻摩磨魔毎妹枚昧埋幕膜枕又末抹万満慢漫未味魅岬密蜜脈妙民眠矛務無夢霧娘名命明迷冥盟銘鳴滅免面綿麺茂模毛妄盲耗猛網目黙門紋問冶夜野弥厄役約訳薬躍闇由油喩愉諭輸癒唯友有勇幽悠郵湧猶裕遊雄誘憂融優与予余誉預幼用羊妖洋要容庸揚揺葉陽溶腰様瘍踊窯養擁謡曜抑沃浴欲翌翼拉裸羅来雷頼絡落酪辣乱卵覧濫藍欄吏利里理痢裏履璃離陸立律慄略柳流留竜粒隆硫侶旅虜慮了両良料涼猟陵量僚領寮療瞭糧力緑林厘倫輪隣臨瑠涙累塁類令礼冷励戻例鈴零霊隷齢麗暦歴列劣烈裂恋連廉練錬呂炉賂路露老労弄郎朗浪廊楼漏籠六録麓論和話賄脇惑枠湾腕
高等学校の学習指導要領の国語には、
常用漢字の読みに慣れ,主な常用漢字を書き,文や文章の中で使うこと
とあり、高校卒業時にはその多くが読めて、主なものは書けること、を求めています。
…が、これ、考えてみればスゴいことなんですね。
外国にはこんなに文字の種類はありません。
しかし私たちはそれをサラッとやっているわけです。
私たちは日頃から漢字の読み書きを叩きこまれているので、
外国人から見れば超難解なこれだけの漢字を使うことができるんですね。
つまり「できない」「難しい」ことも、周囲の環境と毎日の継続で自然に身に付く、ということを、
みなさんは知っておいてください。
そしてこれは「人の成長」そのものなんですよね。
「好き」を極めよう
しかし「できない」ことを「すべてできる」ようにする必要はありません。
例えばインターハイで優勝し、同時に東京藝大に合格するみたいな離れ業は不可能です。
特に高校生の今は、今後の人生を真剣に考える年代で、
進むならインターハイの優勝を目指すか?
東京藝大の合格を目指すか?
自分の方向性を見定めて、進む方向を絞りますね。
ここで拠り所にするのは、
自分が「好き」なことです。
孔子の著書『論語』の一説にもこう書かれていますからね。
原文:
子曰、知之者不如好之者。好之者不如楽之者。
読み下し:
子曰わく、之を知る者は之を好む者に如かず。之を好む者は之を楽しむ者に如かず。
訳:
孔先生は言われた。「学ぶことにおいて、その知識を知っているということは、勉強を好きな人間には敵わない。勉強を好きな人間は、勉強を楽しむ人間には敵わない」
好きな教科があれば、それを極めればいいし、
好きな部活で頂点を目指すのもいい。
学校から離れて、好きな趣味や習い事を極めてもいいでしょう。
親や学校の先生は、
「そんなことをがんばっても食っていけない」
など、老婆心からアドバイスをしてきますが、
それに従うか従わないかは、あなたが決めることです。
親や学校の先生はアドバイスこそしても、あなたの人生に責任はとってくれません。
自分の人生に責任を負うのは、あなた自身しかいないからです。
なぜ「好き」を極めるのがいいのか?
こだわりの姿勢を自然に身につけられる
これは、そこそこ生きてきた私なりの考え方なんですが、
若い時の「好きを極める」という姿勢は、
大人になって様々な場面に活かされるからです。
例えば電車大好きA君は、電車という電車をすべて覚えてて、1日中電車を見てても飽きない少年だとすれば、
多くは「JRにでも就職したらいい」と思うかもしれませんが、
好きだけで就職が決まるような社会ではないんですね。
現実は、趣味と仕事は別物だからです。
しかし、一度でも好きを極めた人は、その「奥の深さ」を知っているので、
その後別の仕事に携わった時もまたその世界の「奥の深さ」を追求し、
そこに「好き」を見つけ、これが生きる原動力になっていきます。
ダンスが好きでいくら極めても、その道で食って行けるほど現実は甘くはありませんが、
ダンスを「極めようとした経験」は、その後の人生に大いに役立ちます。
これは、法学部を卒業した人が皆、法律家になるわけではない、のに似ています。
大学生活で培った”姿勢”が社会人として有益に働くのです。
そのためには自分の好きなことを追求するのが、
最もストレスの小さい近道であることは申すまでもないでしょう。
社会が高卒より大卒に高い給与を支給するのは、
そんな”こだわり(専門性)”を大学で学び、これを仕事に活かせる人材だ、という期待からなのです。
承認欲求を満たしやすい
もうひとつは、
承認欲求を満たしやすいからです。
本ブログでは何度も書いたことですが、
人には「誰かに認めてもらいたい」という潜在的な欲求を持ち合わせており、
自分の好きなことは、これを周囲が承認しやすいものです。
「彼は数学では学年一の成績」
「彼女のダンスはプロ級」
…なんて評価をもらうと、自分に自信がついて「もっとがんばりたい」と思うようになるんですね。
さらに承認欲求より高次にある「自己実現欲求(自分はこうありたい)」という、自己の生き方に直結する人生観を形成することができるようにもなるのです。
承認欲求や自己実現欲求については、
以下関連記事も併せて参照してください。
まとめ_ハングリーな気持ちと感謝を忘れないで
今日のテーマは「足りなさの恩恵」
なぜ満腹でなく、ハングリーの方がいいのか?
という理由は先に述べたとおりです。
これを読むみなさんは、まだまだ未熟な部分をたくさん持ち合わせており、
そこを磨くために毎日がんばっているはずですが、
そんな中で、
人生のモデルになるような人との出会いや、
心に深く刺さる本や映画に大きな影響を受けながら自分を磨き続ける方が、目標が明確になり長続きするものです。
またそんなあなたの生活を支えてくれる家族や周囲の方々には、感謝の気持ちを忘れてはいけません。
自分の人生は最終的に自分が責任を負うものですが、
あなた一人だけががんばっているのではなく、そのがんばりを多くの人が支えているからこそ、
あなたががんばれてる、という現実を直視しましょう。
これはプロ野球と同じくらいに高校野球が話題になることにも表れています。
実力ではプロに及ばなくても、足りなさの中にある清々しさや全力プレーに加え、周囲への感謝を忘れない姿勢に大きな魅力を感じるからでしょう。
ぜひこれからも未完成な自分を磨き、好きを極め、立派な大人に成長してくれんことを祈らずにはいられません。
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