カルト宗教には気をつけて!!_「心の呪縛」からの解放

学校生活
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いつもご覧いただき、ありがとうございます。
今日のテーマは「カルト宗教」
先月安倍元総理の銃撃を機に、再びメディアで取り上げられるようになりました。

私は特定の宗教を信仰する者ではありませんが、仏教系の私立高校に通っていたことや、
大学入学後早々に、旧■■教会に係わりかけたこともあったので、個人的な宗教への思いや、特にカルト宗教には染まらないでほしい、との思いを込めて記事を執筆しようと思いました。
最初に断っておきますが、これは憲法に保障される「信教の自由」を侵すものではなく、信仰は各々の心の中にあるものだ、という前提で書く記事ですので、誤解の無いようにお願いする次第です。
最後まで読んでいただければ幸いです。

プロフィール

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高校時代

私は仏教系の私立高校出身です。
これは過去記事にも書いたように、公立の入試に落ちて進学した滑り止めの高校でした。
高校では毎朝「般若心経」を唱え、高2からは「宗教」という授業もありました。
今となっては授業で何をやったかさえよく覚えていませんが(;’∀’)、お経の内容をひたすら説明されていたような気がします。
高3には泊まりの修行体験もありました。朝5時から座禅したことや、写経、物音一つ立てない食事、などは今もよく覚えています。

私が高校時代に学んだのは「諸行無常」の概念でした。
諸行無常とは、「現状は常に変化し続けている」という意味で、形あるものは全て、いずれ消えて無くなる、ということです。
そこから「いいことも悪いことも長続きしない」とも解釈もできる語で、
「この辛い受験生時代もいずれゴールが来るから今頑張ろう」と常に自分に言い聞かせていましたね。

大学入学後

映画を見る会

大学は、親元を離れて一人暮らしをしましたが、入寮後すぐ、まだ友人も少なかった頃、
「映画を見る会」のメンバーと名乗る男性が部屋を訪れました。
その男性曰く、
「みんなで映画鑑賞をしながら語り合う会」で、一度見学に来ないか?とのこと。
何もすることがなかったので、入試で知り合った友人と会に行きました。

大学近くの古い一軒家に連れていかれ、玄関を入ると、そこに聖書の一節のような張り紙があり、
「神?なんか変だな?」
と思いながら部屋に入ると、そこに十数人の学生らしき人がお茶しながらビデオを見ているんですね。
ビデオ自体は普通のものでしたが、その部屋の壁にも玄関にあった「神はなんとか~かんとか~」と書いた紙がたくさん掲示されていたのです。

その実態は、、、

その日はビデオを見て寮に戻りましたが、翌日は大学のオリエンテーションがあり、そこで衝撃の事実を知りました。大学生活で気をつけてほしいこと、という題で、

  • 最初は「ビデオを見る」などと勧誘される …ん?
  • しかしこれは「カルト宗教」なので、絶対に関わってはいけない …え!?
  • 入信したら、洗脳されて布教活動に携わることになる …まじ!?
  • お金や時間はすべて捧げ、家族や友人との関係は壊れ、結局大学も続けられなくなる 気絶!!

…というもの。
昨夜行った「映画を見る会」じゃん!
と思い、説明してくれた人に昨日の出来事を話すと、
「それは間違いない!」
とのこと!
気絶寸前!顔真っ青( ゚Д゚)!になった私は、オリエンテーションで仲良くなった数人に部屋に待機してもらい、
その夜再び訪ねてきた「映画を見る会」の男性を追い返しました!(^.^)/~~~

勧誘のあの手この手…

その後もいろんな勧誘がありましたね(;’∀’)
一度は追い払った「心の余裕」があったので、
ヒマな時は、玄関で延々と教義を聞いてから追い返したこともありました。

またある時は、玄関を開けると小さな子どもがパンフを持って立ってたこともありました。
「ん?なんで子ども?」
って思ったら、少し離れたところで親が見てるんですね(;’∀’)
子どもなら無下には扱わないだろう、って作戦なのかな?
この時だけは、ちょっと「ムカッ」ときたのを覚えています。

若い人が狙われやすい

今思えば、まだまだ未成熟な若年層は、信仰に染まりやすい年代だと思います。
若年層は未成熟かつ思考が柔軟ですから、自分が「ピン!」と来たら、一つを信じて突き進む傾向があります。それが勉強や部活なら、すごい力を発揮します。
また恋愛や推しにも、一度好きになったら、同じように突き進みます。
言い方は悪いんですが、若年層は「信じ込ませたら」そうなっちゃうんですよね。
それが若い人たちの「強み」でもあり「弱点」でもあるのです。

洗脳

私が入会しかけた「映画を見る会」は、○○研究会とか■■教会という名のカルト宗教でした。
冷静になって考えれば、何故最初から教団名を伏せて「映画を見る会」なんてウソをつくのでしょうか?
もうそれ自体に「後ろめたさ」や「詐欺的」な臭いを感じます。
さらに「信仰」自体は自由ですが、そこに必要以上の布施(お金)や、学生生活を犠牲にしてまで布教活動を強制されることに無理があるから「カルト」と呼ばれるのでしょう。
それは信仰ではなく、マインドコントロール(=洗脳・呪縛)です。
まだまだ未成熟な若者に「神の救い」を洗脳するのは、年配者にするよりはるかに簡単です。
学校ですら、部活顧問が「神」のように扱われることもあります。
なんでもかんでも「はい!」「はい!」言って(言わせて)、顧問の発言は「絶対」なんですね(;’∀’)
それも一種の洗脳に近いものを感じます。
洗脳は決して特殊なことではないのです。
人生の決断を、他人に委ねたくなるのが「人の弱さ」です。
その人の弱さに付け込んで、いいようにコントロールする行為が「洗脳」なのです。
私の過去記事もご参照ください。

人生の決断を他人任せにしてはいけない

「信じられる自分」になるための修行

私が前に知り合いの僧侶と話した時、

参拝者の多くは、寺や神社を「自動販売機」のように考えている。
賽銭をチャリーンと入れたら、下からご利益(=救い)が出てくる的な考えの人が多い。

寺はそんなところじゃない。

…と。

また別の僧侶曰く、

仏とは、本来各人の心の中にあるもので、
それを目に見える形にしたものが仏像だ

…と。

つまり信仰とは、自分を信じること。
また、信じられる自分になるために行うのが「修行」であり、
神仏に手を合わせるのは、そんな自分を確認する行為なのです。

私の思う「高校生の修行」は、勉強や部活をはじめ、
自分を成長させてくれるすべての活動を指します。

本来最も信ずべき対象は「自分」であるはずです。
だから人生の選択は自分でしなければならないのです。

「自信」は「自分を信じる」と書きます。
自信をつけ、力強く前を向いて生きていける。
宗教の本来とは、そんな人を育成するための方法論だったのではないでしょうか。

最後に

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今日の内容は非常にセンシティブな内容ですが、
結論を言えば、信仰にお金をかけ過ぎたり、自分や誰かを犠牲にして救われる、とは思わないことです。何かを犠牲にしたり無理強いする行為は「心の呪縛」であり信仰ではありません。
信仰心はあくまでも自分の中にあり、他から強要されるものではないはずです。
そして自分が「洗脳」されていないか?
自分以上に「他人」を信じるよう仕組まれたら危険信号です。

宗教法人が税法上の優遇を受けているのは、政教分離の考えが根底にありますが、政治と宗教の関係が問題視もされる現在、特に若い人たちには今後の人生のためにも深く考えてほしいと思い、この記事を執筆しました。
自分の人生の選択は、あくまでも自分自身がするものです。
無宗教の人が多いこの国だからこそ考えてほしい問題でもあると思っています。

ではでは、今日はこの辺で、、、

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