【自殺】2学期を前に_自分を殺めてはいけない理由_いま自分が深く傷つき味わう「痛さ」は死ぬまで忘れることはできないでしょう。しかし時を経た未来に、その痛みを同じように「再現」することも、またできないのです

危機管理
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間もなく2学期。

統計によると、10代の自殺で最も多いのが9月1日とのこと。
これは2学期の始まる日であり、この日に死を選ぶ10代が多い、という現実はここずっと続いているのだそうです。

私も教員時代、生徒の自死に直面したことが二度ありました。

その時の生々しい経験や、周りに与える予想以上に大きな影響も、途中書ける範囲で書きますが、とにかく自殺は自分を殺すだけでなく、多くの人の人生や精神をもボロボロにする行為であり、絶対に・・・止めて欲しいこと。

さらに人生は諸行無常でもあり、人は必ず変われる(報われる)、ということをここにに書き記したいと思います。

今日の記事は、2021年に私が上梓した下記著作からの加筆修正版になります。

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若年層の自殺の現状

未成年の死因で「自殺」が1位になる国は、先進7カ国中では日本だけ、という統計があります。また他の年代ではここ10年間の自殺率が減少を続け、統計を取り始めた1978年以来最低水準だったのに対し、未成年の自殺率だけは2022年に過去最高を記録した、という記録もあります。世界的にみれば経済的に恵まれ、衛生・医療環境の整った国で、自ら死を選ぶ若者が多いという現状を、社会全体で重く受け止めなければならないと思います。そしてコロナ禍で、減少に転じた自殺率が増加すると予想されるいうニュースや、現に児童生徒の自殺者が急増したという記事、学費の支払いが追いつかず休学や退学を余儀なくされる学生も増えてきた、との報道もあります。全年代層で見ると、自殺原因の1位は「健康面」であり、2位が「経済面」となりますが、特に中学・高校生世代に限れば、健康面での悩みは少ないはずです。遺書等から原因が特定できる10代の自殺で最多だったのは、今も変わらず学業や進路、人間関係といった「学校問題」や「家庭問題」なのです。

最新の統計(2023,3,30/厚生労働省自殺対策推進室)によると、
令和4年の全国の高校生の自殺者数は前年比66人増の354人で、過去最多の人数でした。
校種別では、小学生17人、中学生143人、高校生354人。圧倒的に高校生の割合多い、というのが特徴です。

また令和4年の統計では、自殺の原因で多いのは、学校問題が5割、健康問題が2~3割とのこと。学校問題では、学業や進路に悩み「死」を選択する高校生が多く、健康面ではうつ病等精神疾患を原因とするケースが多いのが特徴です。しかしこれはあくまでも遺書等から原因が特定された統計です。コロナによる将来悲観、さらにいじめや体罰等を苦にした自殺は、発作的なものも含め、遺書すら遺さないことも多いのでは?と私は予想するので、実態はまた違ったものになるのでは?とも思っています。

命の軽さ

生徒の死

私は30年余の教員生活で、生徒の自殺に2度直面しました。2人とも1年生の女子生徒で、直接の担任ではありませんでしたが、当該学年の担任団だったこともあり、当時のことは今も鮮明に覚えています。その経緯等ここに記すことは差し控えます。しかし2人とも自殺の当日まで普通に登校し、特に変わった様子もなく学校生活を送っていたのです。

うち1人は、その当日も授業に入っていましたが、何ら変わった様子はなく、授業の課題に黙々と取り組んでいました。そんな生徒の悲報を翌朝に聞くことになろうとは、この時夢にも思わずいつもどおりの授業をしていたのです。彼女には親友もでき、休み時間には明るい笑顔も見せてくれました。ご家族は高校入学を機に環境が変わることを心配しておられましたが、成績もトップクラスで順調なスタートが切れたことを喜んでいた矢先の悲報だったのです。遺書等は無く、彼女のスマホにも気になる点は見当たらなかったため、最後まで死因の特定はできませんでした。

もう1人も、死因の特定はできませんでした。保護者はやり切れない思いとともに、なぜ高校入学間もない娘が自死を選んだのか?とその原因を知りたがっておられましたし、これについては死因を巡る根も葉もない噂も流れました。入部した部活で何かあったのではないか?と、顧問や部員から聞き取りもしましたが、原因らしいことは特定できず、月命日には管理職と学年主任が遺影に手を合わせに家庭訪問し、遺された両親のやり切れない思いに耳を傾ける月日が、卒業式近くまで続いたのです。

自分が死んだらどうなるか

自殺は「生きる苦しさ」と「死への恐怖」を天秤にかけ、前者がまさった時に起こり得る悲劇ですし、発作的に実行されることもあります。「死の苦しみ」を私はまだ知りませんが、そんな自分だって「死にたい」と思ったことは一度や二度ではありません。しかしなぜこれを思い止まるかというと「遺された人の思いや自分への未練」と「自分が楽になること」を次の天秤にかけるからでもあります。生徒が自殺した直後、遺された家族や級友、関係者は大きなショックを受け、精神的にも相当不安定な状態になります。保護者が最も知りたいのは、その「原因」です。自分の育て方が悪かったのか、それとも親の知らないところで辛い思いを抱えていたのか?そして、もしそうだとすれば、これに気付いてやれなかった自分を再び責め続ける結果となりますが、それでも保護者はこれを知り、少しでも納得し、慰め、供養してやりたいのだと思います。学校もそのための調査を約束しますが、対象となる友人達も自責の念とともに深く傷ついているし、さらにその保護者だって連鎖的な悲劇を心配して不安定になることもあり、特に慎重を期して聞き取りやカウンセリングを進めていかなければなりません。このように人一人の死は、結果周りの人の精神や人生をボロボロにしてしまいます。
人の死というのは、それほどまでに大きなことなのです。

人の命は軽く儚(はかな)いものだから…

私がこの2人の死から悟ったことは「人の命ほど軽く(・・)はかないものはない」ということです。よく「命は地球より重い」と称されますが、私は全く逆の捉え方をするようになりました。なぜなら室町時代の蓮如(れんにょ)上人(1415~1499)の著に「(あした)には紅顔ありて(ゆうべ)には白骨となれる身なり(白骨の章) 」とあるように、その当日まで元気でいた子が忽然と消えてしまったからです。「人の命なんて簡単に消えてしまうものだ」…こう思った時に「人の命は軽く儚いもの」だと感じ、だからこそ「大切にして守らなければならないもの」だと思うようになりました。生まれたての子どもが弱い存在であり大切にされるのは、その命の軽さゆえですが、これはいくつになっても、いくら科学や医療が発達しても同じことだと思います。人は、その気にさえなれば今すぐにでも命を落とせる生物ですし、これは他の動植物にはできない行為です。「命を守る」とは、そんな“人類の特殊性”に鑑みて、我々が「生きる意味」を模索し問い続ける営みだと思うのです。

なぜ生きるのか

そして、これを具現化したのが「宗教」や「哲学」です。太古の昔から「人はなぜ生きるのか」という答えのないその目的や意味を説き、一度きりの人生をよりよく全うするために、多くの「教え」が語り継がれてきたのでしょう。私は特定の神仏や説を信奉する者ではありませんが、人が生まれてきた価値や生きる意味、さらに死の捉え方に自分なりの答えや目的を持って生きることは重要だと思っています。自分が誰かを幸せにするための存在であり、また人から幸せを分け与えられ、それに感謝して死を迎えること。私はそんな足跡を残すために生きていると思っています。もちろん長い人生で思い通りにならないことはたくさんあるし、自分の存在が罪と感じることすらあって、もがき苦しむのもまた現実です。

学校では時に「一人で悩まないで」というメッセージとともに、相談先の電話番号が書かれた名刺大のカードを配ります。これを配布すると多くの生徒は「自分には要らない」とか「資源の無駄」と言います。しかし「これを必要とする人がもし千人に一人いるとしたら、全員に配ることで救われる命もあるのでは?」と答えていました。これを言うと生徒は納得し、その意味を理解します。本当ならその場で「明日が保障された命はない」とも言いたいところでしたが、さすがにそこまで言ったことはありません。

「まもろうよ こころ」HPにリンク

自殺を志願する君へ

大人は、若者の自殺について「情報化時代」「ゲームの悪影響」「忍耐力の欠如」とか勝手なことを言いますけど、本気で自殺を考えている人に、これは何の抑止力にもなりません。自殺を真剣に考えている人はそんなことはどうでもよくて、ただただ今の自分を消すことで、その苦しみから逃れたい一心です。また自分にその意識すらなく発作的に事に走ることも有り得ると思います。

他人を殺(あや)めたことのない理由は?

しかし人の命を奪う“殺人”が最も重罪であり強い非難を受けるように、自殺は自分を殺害するという点で“自分への殺人罪”となり同罪です。自殺志願の君に考えて欲しいのは「あなたはなぜこれまで人を(あや)めたことがなかったのか?」と自問し、何か理由を答えられるのであれば「それが同時に自分を殺めてはいけない理由だ」と、私は伝えたいです。

諸行無常

また「未来を悲観する」のが自殺の大きな理由でもありますが「なぜ未来が悲観的だといま断言できるのか?」とも自問し、その回答が間違いだと証明するために、これからも生き続けてほしいです。

この世のすべては常に変化し続けている、という概念を、仏教では「諸行無常」と言います。
今のあなたの苦しみも、いずれ必ず変化し癒えていくもの、という意味です。
私も高校時代、家庭や進路の問題に悩みましたが、そんな自分を支えた考え方が諸行無常でした。
「いつまでもこのしんどさは続かない。必ずトンネルの出口があるはずだ」
と自分に言い聞かせていました。
今となれば、そんな悩みもいい思い出の一つになりました。
どんなに辛いことも必ず癒える、という概念が諸行無常です。
それを信じて、決して自分の命を絶つ、という選択肢だけは絶対に実行しないで欲しいのです。

有無同然

また仏教には「有無同然」という言葉もあります。これは「例えば、恋人がいたらいたで悩み、いなかったらいなかったで悩む。つまり有っても無くても悩みは尽きない」という意味です。私の記事に書いた校則改訂にも似た心理ですが、これを「命」に置き換えた場合、さて「有無同然」は通用するでしょうか。恋人の有無はどちらも悩みの種ですが、これはどちらも経験できる「命」あればこその悩みであり、死は確実にその選択をも奪います。学校を辞めたい、勉強ができない、受験に失敗した、好きな人にフラれた…と将来を悲観して死を選んでいたら、その先にある進路先や人との出逢いで起こるかもしれない幸運を手にする権利すら捨ててしまうことになりますし、いまあなたの周りにいる人にも深い傷を与えることにもなります。今日の「不幸」が、将来「幸せ」の序章ということはいくらでもあります。未来はどうなるかなんて誰にもわからないのに、自分一人で答えを決めて死を選ぶなんて…とても悲しいです。あなたの人生に素晴らしい出会いや将来が用意され、何十年後かに今の悩みが笑い話になっているかもしれないのに、命を落としてしまったら、それさえも不可能になりますよね。私も今病気だし身体は思うように動かないし、リハビリもきついし、だから本当はとても辛いけど、でも今こうしてブログを書き、自分の思いを形にすることで、もしかしたら今後かけがえのない出逢いがあるかもしれないし、このブログが誰かの胸を打つかもしれない。その可能性がゼロではない今、これまでとは形を変えて生きているようなものです。そしてこれがダメならまた別の手段を考えればいいし、生きていなければ、その選択すら考えることはできないのです。だから命は大事なんです。

世の中には生きたくても事故や病気でそれが叶わない人、子どもが欲しくてもできない人、また逆に生きていけるのに死を選択する人や、望まない妊娠をする人もいます。同じ現象でも、ある人には幸せなことで、ある人には不幸となるので、今の辛さがこれからもずっと変わらないなんて誰にも証明できないし、逆にこれは「幸せの種」なのかもしれません。そういった意味で「生きること」とは「可能性を信じること」です。特にこれからの未来を生きる中高生のみなさん、先の見えない人生に不安は尽きないとも思いますが、長く生きるといいことはたくさんありますし、いい出逢いにもきっと恵まれます。そして誰にだって必ず幸せはやってきます。

いま自分が深く傷つき味わう「痛さ」は死ぬまで忘れることはできないでしょう。しかし時を経た未来に、その痛みを同じように「再現」することも、またできないのです。

自殺を志願する君へ、あと1日だけでも生きてみませんか?人は“忘れる動物”です。時間がそれを忘れさせてくれるのです。だから、あと1日、あと1日と唱えながらでも生きていくことを決して諦めないでください。私の心からのお願いです。

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