いつもご覧いただき、ありがとうございます。
今日のテーマは「当たり前」のこと。
みなさん、「当たり前」の反対語は何かわかりますか?
答えは後半で書きますが、
今日言いたいのは、当たり前のことに「感謝の気持ち」を持ちましょう、
という内容です。
特に「自分はついてない」とか「自分は幸せじゃない」と思ってる人に読んで欲しい内容です。
あなたにとっての「当たり前」とは
「当たり前」とは、周りにある「すべて」です。
朝、目覚めた時に入っている布団。
今住んでいる家や、学校に行くために着る制服、お母さんが作る朝食やお弁当…など、
蛇口を開けば水が出るし、電気も灯きます。
あって当然のものでも、これらが無くなったら大変ですね。
世の中には現実「家」や「寝床」にも困る人が少なくありません。
食べるものも無く、飢えている人もたくさんいます。
しかし、これを読んでいる人のほとんどは、そんな苦労を味わったことはないと思います。
一歩家を出ると、電車は時間通りに来るし、学校に着けば、普通に友だちや先生がいる。
学校には自分の机やロッカーが用意されていて、授業や部活に参加できる。
全部「当たり前」のことなんですが、
このどれかが無くなったことを考えてみてください。
あなたの生活は確実に「激変」するでしょう。
「当たり前」は当たり前じゃない
見えないところで
大きな自然災害が起きた時など、ライフラインが寸断されて、給水車に並ぶ人の列を報道で見ることがありますね。蛇口をひねれば当たり前に出てくる「水」も、一度止まれば我々は大いに困ります。
洗面、トイレ、入浴、洗濯、食事…など多くの場面に水は不可欠だからです。
2021年10月、和歌山県の紀の川に架かる水管橋が崩落して6万戸が断水した、というニュースはご存じですか。
隣の橋に送水管を設置し10日ばかりで給水されたそうですが、この橋は作られてから45年以上も経過していたそうです。
もちろんその間ずっと放っておいたはずはなく、定期的に点検をし、安全な供給を目指していたはずですが、それでも事故は起こってしまいました。
つまり、日頃事故なく普通に使えている水道や電気は、見えないところで「数多くの人の尽力」によって維持管理がされているからこそ、我々はそれを「当たり前」に使えているのだ、ということを再認識する必要がありますね。そしてそれでも事故が起きることだってあるのです。
私の過去記事もご覧ください。
100万円
この「目に見えない尽力」により、生活の「当たり前」が守られているとすれば、さらに身近なところにある「尽力」を考えてみましょう。
みなさんは高校生ですから、当たり前に学校に通っています。
学校に通うには、お金がかかります。教科書代や制服代、定期代、PTA会費、生徒会費や部費など、たくさんのお金が必要です。
それ以外にも公立高校の生徒一人当たり、いくらの税金が使われているか知っていますか?
高校生一人当たり、1年間に使われる税金は約100万円といわれます。
これは学校の設備・維持管理費や教職員の人件費、就学支援金などを含んでの額で、驚かれるかもしれませんが、この「当たり前」がなければ、学校自体が存在しないことになります。
さらにみなさんが進学を希望する学校の学費は知っていますか?
これを工面するのは親の役目ですが、現実にはそのお金すら払えない家庭も多いんですね。
高校生は未成年ですからそれを「保護者が払う」のが当たり前、なんですが、この「当たり前」を「当然」と理解して「高校に行ってやってる」的な感じで親に偉そうな生徒には腹立ちますね(~_~メ)
「誰のおかげで学校に通えてると思ってんだ!?」
って、許されるならぶっ飛ばしてやろうか?と思うこともありました…(-_-;)
権利と義務
私は、ここ近年を「人権の時代」だと考えています。
昔に比べ、ハラスメントに対する考えや、犯罪被害者の人権について着目されるようになった、と感じるからです。人権侵害を許さない風潮が成熟してきたようにも感じます。
もちろん私だって個人の人権が尊重される社会を歓迎しますが、
一方で「権利ばかりを追い求めてる感」もしないではありません。
権利と義務は、対を成す言葉です。
義務を果たさずに権利だけを主張することがあってはならない、とは思いませんか?
権利ばかりを追いかけて…?
個人的に思う一例を挙げると、マイナンバーカード。
全国民を個人番号で管理し、保険証や年金の管理が一元的にできる制度ですが、
これを作らない人がまだまだたくさんいます。
理由は様々でしょうけど、作らなくてもいいのは「人権(権利)」だと言えるのでしょうか?
アナログテレビが地デジに変わったように…
紙の切符が自動改札に変わったように…
これも時代の流れではないのでしょうか?
今、マイナカードと保険証の紐付けが問題化していますが、これだって他人の保険証を使って受診する輩がいるから、政府がその導入を急いでいるのだ、と私は思っています。
学校には毎年健康診断がありますが、過去に宗教上の理由でレントゲンを撮れないという生徒がいました。
入学後早々そんな情報がなく、他の生徒と同じようにレントゲンを受けてから保護者の猛抗議が来たことがあります。
「どう責任をとるんだ!?」
…と。
学校は平謝りでしたが、「なんで謝るの?」と私は疑問に思いました。
ま、ここは謝らなきゃ話が収まらないのも、よくわかります。
しかし該当生徒が結核にでも罹り、それが蔓延したら逆に
「どう責任をとるのですか?」
それでも信教の自由の方が優先されるのでしょうか?
それは自由ではなく勝手ではないですか?
レントゲンは「義務」だ、と私は思うんだけどなぁ~~
人は当たり前の一翼を担う存在
話が少し逸れてしまいました(;´∀`)
今日私がお伝えしたいのは「当たり前」に感謝することです。
しかし「当たり前」は、毎朝東から日が昇るように自然なものではありません。
前述の電気や水道をはじめ、我々が不自然に感じないことは、すべて誰かがこれを支えています。
電車が定刻に来るのも、どこでもネットに接続できるのも、コンビニが24時間営業しているのも…
我々にはどんな当たり前のことの陰にも、多くの支えがあります。
みなさんの周りにいる人も、何かの当たり前を守るために仕事や家事に勤しんでいますね。
そしてみなさんもいずれ、そんな当たり前の生活を支える一翼を担う人材です。
みなさんは将来どんな当たり前を担うかはわかりませんが、当たり前の生活を維持するための「責任」を伴うことは確実です。
そんな責任を果たす人になるために、今は学業や部活に励んで、自分の進む道を模索しているのが、高校時代だといえます。
「当たり前」の反対語は
究極の当たり前
「子を持って知る親の恩」
「親孝行、したい時には親はなし」
という言葉があります。
親の立場になったり、親を失って、初めて親への恩がわかる、という意味です。
中高生時代は、まだ反抗期只中の生徒もたくさんいるので、
教員時代の私は保護者の気苦労に直面する場面に何度も遭遇しました。
さっきの義務・権利の話にも通じますが、憲法26条には「教育を受ける権利」が保障されています。
だから、保護者は自分の子に「教育を受けさせる義務」があり、我が国ではこれが「当たり前」のことになっているんですね。
この「当たり前」を「当然」と思うか?「ありがたいこと」だと感じるか?
少なくとも高校生になったら、一番身近に応援してくれる「自分の親」に対して、これまで育ててもらった「感謝」の気持ちは持ってください。
そして、「感謝」の気持ちは、ただ思うだけでなく、言葉や行動で表現できる人になってください。
将来、自分が人の親になった時、同じように感謝される親になるためにも…です。
「親の恩」は、最も身近で最も当たり前のことですが、最も究極の当たり前なんですね。
back numberの「手紙」は、大学時代の息子が私の前で歌ってくれた曲。
父親冥利に尽きる涙~涙~のカラオケボックスが懐かしい、思い出の曲です。
自分の健康
健康な心身を、高校時代は「当たり前」と考えますが、それが当たり前じゃないことは、病気をしたり、年を重ねてからわかります。
私も昔は元気でしたが、今は不自由を抱える身となりましたから、その有り難さが痛いほどわかります。
これを読んでいるみなさんは、ほとんどが五体満足の身だと思いますが、そう産んでくれて育ててくれたご両親には感謝を忘れないようにお願いしますね。
そしてみなさんも今の健康を長く維持するために、自己管理がしっかりとできるよう配慮してくれることを願います。
ありがとう
「当たり前」の反対語は「ありがとう」です。
当たり前のことにも、数多くの人の尽力があり、親の愛があるのが当たり前です。
そんな自分の周囲に目を向けて、「ありがとう」と感謝の気持ちを持って過ごしたいものです。
それができれば、この世の中から戦争をはじめとする争いや妬み憎しみはさらに少なくなるでしょう。
そして日頃から優しい言葉を遣うよう心掛け、感謝の気持ちを忘れない人が一人でも多い社会を願ってやみません。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
もう2学期ですね。
いいスタートが切れるよう、お祈りしております。
次回は9/1に臨時版を公開する予定です。
2学期の始まる日、次の記事も読んでいただけると、うれしいです。
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